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歴史

茶の湯は、
「おいしいお茶をもって、
主客ともに楽しみ、心を通いかわせること」
に、大きな意義がありますハート

稽古をつうじ、その古き心を学べますハート


私、出身が堺ですが、
10代は、中途半端な町としか思っていなかったです笑

茶道を習い始め、
自分の住んでいる町が
歴史的に活気ある土地であったと
著名人を生み出した町だったと気付きメロメロ
誇りを持つようにハート


茶の湯の歴史をお勉強してみましたハート


茶道は茶道部~茶わん~茶せん
ただ、茶をいれて飲むだけでなく、
生きていく目的や考え方
茶道具・茶花・茶室に置く美術品など、
広い分野にまたがる総合芸術とされていますキラキラY


①奈良時代
・遣唐使 留学僧が薬用として持ち帰る。
   茶を飲む習慣と茶の製法は遣唐使によってもたらされた。
   (しかし、当時は根付かず。)


②平安時代
・臨済宗 僧栄西が 
    茶の種 道具一式 点て方を日本に伝える。


③鎌倉時代
・禅宗を伝えた栄西や道元によって、薬として抹茶が持ち込まれた。
・禅宗の広まりと共に精神修養的な要素を強めて広がっていった。
・茶の栽培が普及すると茶を飲む習慣が一般に普及。


④南北朝時代
・一定の場所に集まって
  茶の「本非(ほんぴ)」を当てる遊技である闘茶が流行




⑤室町中期
・僧から公家 武士に広がる。
    大名の間で盛大な茶会を催すことが流行。
    (大金を使い、当時もてはやされた本場中国の茶器「唐物」を使用。
     これを「唐物数寄」と呼ぶ。)


・貴族の建築であった書院造りが住宅として普及し、
    会所で催されていた茶会が
    書院の広間で行われるようになり、
    足利義満・足利義教の同朋衆の能阿弥(のうあみ)は
    書院茶の作法を完成させた。

これに対し、

村田珠光
    亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説いた。
    (これがわび茶の源流・茶の湯の形となる。)
    同仁斉(銀閣寺東求堂)書院式茶道を指導した 
    大徳寺の一休禅師の弟子となり
    禅を茶の湯の思想とする。

 
    

⑥安土桃山時代
・堺の町衆である
  武野紹鴎が珠光の茶を受け継ぐ。
    書院台子を中心とした東山流
    唐物の茶器のかわりに日常雑器を茶の湯に取り入れ、
    「わび茶」を完成させ、
    単なる遊興や儀式・作法でしかなかった茶の湯が、
    わびと云う精神を持った「道」に昇華していく。


・紹鴎の弟子の千利休によって完成される。
    北向道陳に師事していた利休が紹鴎の門下に入る
    織田信長の時代に茶道の指南役 茶頭となる 
    利休のわび茶は武士階層にも広まり、
     蒲生氏郷、細川三斎、牧村兵部、瀬田掃部、
     古田織部、芝山監物、高山右近ら
     利休七哲と呼ばれる弟子たちを生んでいく。


⑧江戸時代初期まで
・茶の湯人口は、主に大名・豪商などが中心のごく限られたものであった。


⑨江戸中期
・町人階級が経済的勃興するとともに、飛躍的に増加した。
・町人階級を主とする新たな茶の湯参入者を迎え入れたのが、
   元々町方の出自である三千家を中心とする
   千家系の流派である。
   (この時、大量の門弟をまとめるために、
    現在に見られる組織形態:家元制度が確立)


・本来の茶道の目的である
人をもてなす際に現れる心の美しさ」が強調されるようになる。


・この際に大徳寺派の臨済宗寺院が大きな役割を果たし、
   利休流茶道の根本とされる
 「和敬清寂」という標語もこの過程で生み出された。


⑩幕末
井伊直弼が「一期一会」の概念を完成させた。
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